藤島部屋のおかみだった藤田紀子(当時は花田憲子)さんが振り返る。
「息子が入門して大変なことはたくさんありました。親方(初代貴ノ花)も、稽古場で厳しく叱るのはまず我が子と決めていたようだし、おかみとしてのケアも、えこひいきしていると思われないよう、息子以外の力士たちに手厚くなければならなかった。そうしたなか、息子2人は稽古量が違いました。夜中に稽古場で音がするので見に行くと、黙々と四股を踏んでいたこともあった」
兄である三代目若乃花とともに横綱となった貴乃花は、優勝22回を数える「平成の大横綱」となる。2003年に引退すると、その功績から一代年寄を襲名し、「貴乃花親方」となる。翌2004年には父の部屋を継いで「貴乃花部屋」が生まれた。そこからの歩みは、実に浮き沈みの激しいものだった。
「この部屋から横綱を出す」
初代貴ノ花の藤島部屋は、1993年に初代若乃花が定年退職したことに伴い、“吸収合併”のかたちで二子山部屋となっていた。
「そもそも、この部屋を継ぐのは貴乃花親方ではなかったかもしれない」
そう振り返るのは、当時の後援会幹部だ。
「当初、二子山親方は長男の(三代目)若乃花に部屋を継がせたかった。二子山部屋を後世に残し、次男の貴乃花は一代年寄として貴乃花部屋を興せばいいという考えでした。ところが、貴乃花の“洗脳騒動”などもあって、若貴兄弟の仲に亀裂が入り、2000年に若乃花が強引に廃業。貴乃花にすれば、部屋を出て独立するつもりが、自分が継ぐしかなくなってしまった」
思い描いた船出とは違ったが、この頃の貴乃花親方は前を向いていた。2006年には本誌の取材に、「日々手探り状態で指導を続けている」としながらも、今後の夢を聞かれると、「貴乃花部屋から横綱を出すことに尽きます」と高らかに宣言。
そのうえで、「部屋を継いでから5年以内に関取を出すと宣言したのですが、早くも2年が経ちました」というジリジリとした思いも口にした。
結果的に、貴乃花部屋の“関取第一号”は2012年7月場所に十両へ昇進した貴ノ岩。部屋を継いで8年が経っていた。前出の後援会元幹部が語る。
「親方自身、中学卒業後に藤島部屋に入門したこともあり、高校に3年間通うくらいならすぐ角界に飛び込んだほうがいいという考えが基本だったと思う。部屋には相撲強豪の埼玉栄(貴景勝)や鳥取城北(貴ノ岩、貴健斗)出身者もいるが、基本的には中卒から預かる。貴源治と貴ノ富士も中卒での入門だった。関取の輩出まで8年かかったのは、そういったこだわりもあったためでしょう」
弟子たちが少しずつ育ち始めるとともに、貴乃花親方は角界の改革にも動き出す。2010年2月の理事選の「貴の乱」だ。