岩谷の作詞で新たな一面や魅力を引き出された歌手は多いが、加山雄三もその1人だと音楽ディレクターで『岩谷時子音楽文化振興財団』の理事を務める草野浩二さんは言う。
「岩谷先生と出会う前、加山は英語の歌を歌っていました。それを『日本語の歌を歌った方がいいわよ』と、背中を押したのが岩谷先生でした。
加山と岩谷先生は、直接やりとりしているわけではなく、加山が作った曲を吹き込んだカセットテープを岩谷先生に渡すだけ。それなのに、加山が思い描いたイメージとぴったりの詞がすぐに返ってくる。加山はそれに毎回びっくりしていましたね」
母の認知症、そして越路の死
岩谷は生涯独身を貫き、その半生を越路に捧げているが、50代半ばを過ぎた頃に、一緒に暮らしてきた母が認知症を発症。母の介護をしながら、郷ひろみなど人気歌手の歌詞を書き続けている中、母は食事をのどに詰まらせ80才で他界した。
その後、最愛の越路を悲劇が襲う。胃がんを発病したのだ。病名は越路には知らされず、岩谷は病気のことを彼女の親族から聞かされたという。
このときのエピソードをドラマで岩谷を演じた俳優の竹下景子は、次のように語る。
「病気になっても越路さんはたばこや睡眠薬をやめなかった。だから岩谷さんは、自分が厳しくしなくては!と、なんとかたばこをやめさせようとします。厳しい物言いをしてでも、なんとかして越路さんを守りたかったんでしょうね」(竹下・以下同)
しかし、すでに越路のがんは末期の状態で、1980年11月7日、56才でこの世を去ってしまう。
このときのことはドラマ『ごめんねコーちゃん』(1990年)でも描かれた。竹下には思い出深いシーンがあるという。
「越路さんのご葬儀のとき、晩秋の寒いときだったにもかかわらず、岩谷さんはコートも着ないで、最後の1人までお見送りされたことが印象に残っています。あれだけたくさんの曲を作られたのに、作詞家というよりも、越路さんのマネジャーとしての使命をずっと持っておられたことは役を演じていて伝わってきましたね」
最後までマネジャーに徹していた岩谷だが、決して報酬は受け取らなかったという。