狙撃手
一一月に入ってようやく与野党協議が始まり、細川首相と自民党の河野洋平・総裁とのトップ会談までこぎつけた。
だが、交渉は決裂。時間切れギリギリの一八日、連立与党は採決に踏み切った。自民党から十三人、与党社会党からも五人の造反が出たが、与党案が衆院を通過した。
しかし、会期末が迫るなか、減税などの景気対策を求める声が労働界からも上がり、会期延長と予算編成のどちらを優先させるのか、連立内の対立は一段と先鋭化していた。
そんな頃のある夜、高輪の議員宿舎で民社党の米沢隆を待っていると、野中広務が一人で帰ってきた。
「お久しぶりです」
私がそう声をかけると野中も、
「おう、あんたか。元気か」
と言いながら、私のみぞおちのあたりに軽くパンチをくれた。
かつては小沢側近だった野中は私の重要な取材先の一人でもあったが、経世会の大分裂で小沢批判の急先鋒になった頃からは、夜回りに来るのを遠慮していた。最近は、予算委理事として細川の政治資金問題などを鋭く追及し「政界の狙撃手」と呼ばれている。
「おかげ様で元気ですが、今は連立与党担当で、あちこちからボコボコにされてグロッキー状態です」
私は、野中に付いてエレベーターに乗った。他の記者は付いてこない。
「さよか。大変だね。小沢先生にかき回されているからなあ。でも小沢先生も孤立しているのと違うか。景気も悪くなって国民の生活は苦しい。政治改革と言っても世間は付いてこんでしょう」
エレベーターは五階で止まり、私は部屋の前まで付いていった。
「庶民が本当に望んでいる改革は何なのか。それを見失うと大失敗しますよ。私も梶山さんも今まで謹慎していたが、これから反転攻勢に移る。そう小沢先生に伝えといて」
野中はそう言うと、ドアを開けながら「寄っていくか」と尋ねた。
私は少し迷ったが「今日はやめときます。そのうちゆっくりお話を伺います」と答えた。野中は「さよか。ならその時に」と言ってドアを閉めた。
結局、それ以後、私が野中の部屋を訪れることはなかった。
この頃、梶山は「月刊文藝春秋」に「わがザンゲ録」という手記を載せた。梶山は「政治改革で景気が良くなるのか、社会党はそれでいいのか」と訴えた。そして小沢について「目標のためには手段を選ばない天才児だが、革命者は大衆を犠牲にする」と書いた。
小沢の剛腕が周りを不幸にするのではないかと恐れ始めた連立与党の政治家を狙ったものだった。