身近にある遺構から戦争に思いを馳せる(写真は福岡県北九州市の軍艦防波堤)
戦後80年。戦争の爪痕は、焼野原になった都市や地上戦が行なわれた島だけでなく、全国各地に今も残る。戦争遺跡保存全国ネットワークの幅国洋氏に訊いた。
「数多く残るのが軍関係の庁舎や倉庫。こうした施設は国の史跡に指定されているものも多い。また軍用機の地下工場として、東海・北陸・近畿を中心に相当な数の地下壕が掘削されています」
新たに発見されるものがある一方、放置や都市開発により消滅する遺構のほうが圧倒的に多い。
東京・渋谷の境界標石や高知の前浜掩体群、長崎の一本柱鳥居のように、日常風景に溶け込んでいる遺構もある。
戦後80年を迎え、戦争体験者の声を直接聞く機会が少なくなるなか、身近にある遺構から戦争に思いを馳せる意義もあるだろう。
●軍艦防波堤(福岡県北九州市)
海軍艦船の一部は戦後、国内で防波堤に利用された。若松港の港口にある防波堤は、1948(昭和23)年に「冬月」「涼月」「柳(初代)」の3駆逐艦を沈めて造られた。現在は「柳」だけが形状をとどめている。正式名称は響灘沈艦護岸。
●中之院 軍人像(愛知県南知多町)
山間の古刹・天台宗中之院の一角に、コンクリートや石造りの兵士像92体が並ぶ。像の多くは、1937(昭和12)年8月の上海上陸作戦で落命した名古屋第3師団歩兵第6連隊所属の兵士。遺族が慰霊のために遺族一時金を使って写真をもとに制作を依頼した。
中之院 軍人像(愛知県南知多町)
●造兵廠忠海兵器製造所跡(広島県竹原市)
瀬戸内海に浮かぶ大久野島では、1929(昭和4)年から終戦まで陸軍が毒ガスを製造していた。工場の電力を賄った発電場では風船爆弾のテストなども行なわれた。毒ガス製造の実態は1984(昭和59)年までほとんど知られていなかった。
造兵廠忠海兵器製造所跡(広島県竹原市)
●旧広島陸軍被服支廠(広島県広島市)
終戦まで軍服や軍靴などの生産・貯蔵を担った施設。原爆投下の爆心地から2.6kmの距離に位置するも、厚さ60cmの外壁のおかげで倒壊を免れ、被爆者の救護所として使用された。歪んだ鉄扉が原爆の爆風の強さを物語る。国指定重要文化財。
旧広島陸軍被服支廠(広島県広島市)