「母のあらゆる優先順位のいちばんが会社。子供のときによく言われていたのが『会社のためにならない子供は許しません』。仕事で両親がそろって出かけることも多かったのですが、小学校低学年、確か小学校2年生だった私に、『万一、私たちに事故があったらこうするのよ』と、金庫の番号を教えられたりする。
家族というか…子供でも会社を守っていくための共同体の一員という雰囲気が家庭内に漂っていた。私はそういうふうに育てられたので、結局、この家で起こるいろいろなことは、最後は私が責任を負わなければいけないと考えるのが当たり前になって…」
周りの友達と違う家庭環境だったが、「そもそも違う」のだと刷り込まれた。「うちはこういう家なんだ」と子供ながらに受け止めていた。
「小学生の頃、近眼だと診断されたとき、母は『お嫁のもらい手がなくなる』と言って、すぐに当時はまだ珍しかったコンタクトレンズをさせられました。当時はめがねをかけると学校でいじめられたりすることもあったのですが、いずれにしても、母にしてみれば、娘のためを思って何事にも一生懸命ゆえのことでした」
一方で母は、会社の跡継ぎを、久美子さんの弟で長男の勝之氏にと、当たり前のように考えていた。
「『この人に継がせたい』という特別な思いがあるというよりは、母の世代にとってはそれが自然なことだったんだと思います。要するに、『長男が継ぐのが普通だよね』という。昔の家制度の封建的な感覚を強く引きずっている家庭でした。私は1968年生まれで、1970年代に幼少時代を送るんですけど、その当時でも一般的な感覚よりも、10年20年、古い感覚を引きずっている感じというのでしょうかね」
地元の豪農の長女として生まれた母。当時の農家では父親、長男は神棚に上がっているかのような特別な存在で、おかずも他の家族よりも1品多く、お風呂も一番風呂。
「母は父の片腕として会社の経理の仕事もこなすかたわら、家事もよくやっていました。それこそ子供と過ごす時間がないくらい忙しいのに、ちゃんとご飯を作って。そうやっているうちに子供が5人になって、全部できなくなって、お手伝いさんにお願いするんですが、それに罪悪感を感じるタイプだったように思います」
久美子さんは母との間でずっと葛藤を抱えていた。高校時代、フルブライト留学への応募を相談した。すると「嫁入り前に留学なんて、傷物って言われますよ」と反対され、四大を受けると言ったときも、「就職も結婚も難しくなる」と諫められた。そもそも「女は仕事より結婚」という考えの母は、10代の時に久美子さんに見合い話をもちかけた。嫌がったら「なんて親不孝なの!」と嘆かれた。
「20代前半は、いかに母の価値観から自分を解放するか、ということが人生の一大テーマだった」と、寂しげに笑う久美子さん。一橋大学経済学部卒業後の1991年、富士銀行(現:みずほ銀行)へ就職したのも、家族の価値観を強いられないよう、経済的に自立したかったからだという。
しかし、1994年には退職し大塚家具へ入社。それは長男の勝之氏がちょうど大塚家具へ入社するタイミングだった。