小沢はこの大敗の原因を分析し、「皇室典範の改正云々」は票にならず、と冷徹に判断したはずだ。更にはこの時期の民主党の保守系議員(旧民社党系など)の一部から「皇室典範の改正は優先事項ではない」との根強い慎重論があり、小沢にとってもマニフェストに盛り込む意義はなかった、というのが正解だろう。
◆2つの動機
2009年に政権が民主党に交代しても、「皇室典範」問題は封印されたままであった。2008年のリーマンショックへの対処、および「3.11」の緊急事態、「普天間問題」のゴタゴタで鳩山・菅両内閣は到底「皇室典範」に関与する体力はなかった。
ところが「3.11」の混乱が漸く終息してきた2011年9月から登場した野田内閣は、2011年11月から「皇室典範改正準備室」を設置、2012年には有識者を招きヒアリングを開始、にわかに「女性宮家創設」について意欲を見せたが、2010年参院選で自民党が改選第一党になったことにより、「ねじれ国会」が生じた結果、到底この構想は実現できず、2012年末に第二次安倍政権誕生により瓦解した格好である。
民進(主)党と皇室を巡る系譜をざっと俯瞰するとこのようになるが、これを大別すると【1】「女性票の掘り起こしを期待したもの」、【2】「野田佳彦の野望」の二種類に分類することができる。蓮舫代表による「一つの特定の方向を見いだすかのような議論になっているのが引っかかる」(2017年1月20日・産経)といった政府の有識者会議への批判は、典型的に【1】の女性票獲得の発想であり、2004年の「大躍進」の再現を狙ったもので、特段のイデオロギーはないと思われる。
他方、冒頭にあげた民進党の「皇位検討委員会」は野田佳彦の直轄に置かれた委員会であり、委員長は長浜博行(元環境相)だが実質的に野田の影響下にある。
野田は確かに悲劇の宰相であった。「ねじれ国会」のレームダック政権の中で、任期が迫る衆議院を解散すれば民主党の下野は必定であることは誰の目にも明らかであった。野田内閣とは、「民主党王国」にとっての終戦内閣の役目を図らずも背負う運命にあったのである。そのレームダック状態の中、わずか1年とはいえ唯一「国家」の根幹にかかわる事柄、つまり「政治的レガシー」を残そうと試みたのは、この「皇室典範の改正」であったことを考えれば、「皇室典範の改正」は下野して幹事長になった野田の個人的執念といえるだろう。