欧米人は、個を大切にし、個の人生を謳歌している。日常の生活のありとあらゆる場面で、彼・彼女たちは、自己責任を持って「生」を全うする。「死」もそのひとつであることに疑いの余地はない。ならば、私もその個が選択した生き方に敬意を払うべきではないか。
ただ、欧米生活に長年、身を置きながらも「日本人の私」が、心の奥底に潜んでいる。安楽死の正当性をロジカルに捉え、腑に落ちることがあった時でさえ、私のDNAは、どこかしら、拒否反応を示しているようでもあった。
何度も取材したスイスの自殺幇助団体「ライフサークル」のエリカ・プライシック女医が「時には、罪悪感を持つこともある」と口にした際、私は強い違和感を覚えた。後悔の念を抱くくらいなら、私は人を“安楽の世界”へと導くことはしたくない、と。歴史、文化、宗教のすべてが異なる極東の国で、日本人の死生観が、欧米のそれと類似性を持つはずはない。
現に、日本人が安楽死を求めてスイスに渡った事例はかつてない。プライシック女医からも聞いたことはなかったし、彼女が6年間、勤務した世界最大の自殺幇助団体「ディグニタス」にもその形跡はない。日本社会は安楽死を許容できない。日本取材も、その認識を補完するものになると思っていた。
ところが、だ。ある日、プライシック女医から、一通のメールが届いた。とある案件について、特定の会員に向けたレターを、参考までにと、私にも宛てたものである。その中には、こう書かれていた。
My Japanese membersに送ったレターをあなたにも添付するわ。
一体、どういうことだ? My Japanese members、つまり日本人会員? それも複数? 彼女の口から初めて聞く、誤訳など不可能な英語の文字に、私の目が吸い込まれた。