スパイというと猿轡を嵌めて拷問紛いのやり口で何とか機密を聞き出そうとすると読者は想像するかもしれない。王小姐の聞き方にはそこまでのハードさはなかった。TPPといった時事的な争点について質問し、日本政府に属する人間がどう答えるかに静かに聞き耳を立てているという印象だった。
この手の人間はヒートアップして議論することはまずない。例えば尖閣問題といったこちら側と中国共産党と考えが明らかに異なる話題であっても、むきになって反論はしない。スパイの目的は論破することではなく、こちらの思考回路を探ることにあるからだ。
王小姐もその辺りは心得ている様子だった。その一見自然ではあるが、ある意味ではこなれた様が却って私に確信させた。これはスパイだと。
美人スパイが隣でふんふんと頷いているからといって、ペラペラ何でもかんでもしゃべってはどつぼに嵌ってしまう。酒が入っていても口にするのは日本政府の公式見解にとどめなければならない。
ここからは私の想像だが、王小姐は天津に戻ってから私や他の日本からの参加者の発言をメモにして研究所に報告したのではないか。ジグソーパズルを繋ぎ合わせるように膨大なレポートを集積することで、日本側の意図を分析するのが中国の情報活動のスタイルだと言われている。
美人スパイに唯一強引さが見られたのは私を天津に来るよう誘った時だ。ややくだけた中国語で親しげなトーンのメールが別の機会に届いた。静かなる接近とは対照的な積極姿勢。スパイが獲物に襲い掛かる前触れだ。この誘いは当然危険と判断して、その手には乗らなかったところ、潮が引くようにアプローチはなくなった。(文中一部敬称略)
【PROFILE】村上政俊●1983年大阪市生まれ。東京大学法学部卒。2008年4月外務省入省後、北京大学、ロンドン大学に留学し中国情勢分析などに携わる。12年12月~14年11月衆議院議員。現在、同志社大学嘱託講師、皇學館大学非常勤講師、桜美林大学客員研究員を務める。著書に『最後は孤立して自壊する中国 2017年習近平の中国』(石平氏との共著、ワック刊)がある。
※SAPIO2017年11・12月号