Mも同じ指摘をしたところ柳川が情報提供者に「ガセネタをもってくるな」と怒りをぶつけたこともあったという。
金丙鎮を堺市の自宅に訪ね、話を聞いた。『保安司』の出版前、自宅近くを背広姿の男たちが監視するかのようにうろつき、柳川の手下ではないかと怯えた日々を振り返った。さらに金はこう吐き捨てた。
「梁元錫の行動は、日韓の友好や愛国心のためではない。ポアンサの後ろ盾を得ることが目的だったはずです。その威を借りて自らの影響力を強めたわけです。本国の独裁政権の取り締まりに加担したことで、在日の歴史に拭い難い汚点を残したと思います」
穏やかな語り口ながらも柳川を本名で呼び捨てにする金丙鎮からは、強い憤りが感じ取れた。
柳川の行動を逐一検証する材料は乏しいものの、ポアンサの後ろ盾を得た柳川が、もはや在日社会だけでなく、韓国政界にまでその名を轟かせるようになったのは確かだ。1980年代に入ると、柳川は毎年のように数百人規模の訪問団を引き連れ韓国に行くようになる。ソウルの国立墓地にある朴正熙の墓で手を合わせては、陸軍の部隊を慰問する。陸軍にテレビやバイクなどを寄贈して回り、陸軍士官学校の体育館の建設費まで寄贈した。
◆ソウル五輪の貴賓席
一行の訪韓のたびに宴会を催して歓迎したのが、大統領の全斗煥の末弟の全敬煥だ。全斗煥時代に農村振興を目的とするセマウル運動の本部長となった全敬煥は、大統領の弟として絶大な権力を振るっていた。