長嶋家に転機が訪れたのは、2004年3月4日だった。その日、予定の時間を2時間過ぎても自宅から出てこないことを不審に思った運転手が、長嶋さんの部屋に入ると、意識朦朧とした長嶋さんが倒れていた。そのまま、運転手に背負われて大学病院に運ばれたが、重篤な状態だった。
当時は野球の日本代表監督を務めアテネ五輪を控えていた時期。日本中が“長嶋ショック”に見舞われる中、家族の献身的な看病が始まった。
「一命はとりとめたものの、厳しい状況でした。倒れたとき、長嶋さんは自宅にたったひとりだったということで、家族を責める心ない声もあった。それでも、亜希子さんときょうだい4人が一致団結し、24時間体制で連日病院に詰めていました。そのかいあって、意識は戻り、入院1週間後にはリハビリが許されるようになりました。
とくに三奈さんは24時間付き添っていたそうです。甲子園大会の取材をすべてキャンセルし、リハビリの手助けに時間をあてて、ガリガリにやせてしまうほどでした。長嶋さんは右半身に麻痺が残り、言葉も出づらくなり、本人もつらかったはずですが、厳しいリハビリに挑んでいました」(長嶋家の知人)
後遺症のある右手が次第に自力で動かせるようになり、言葉も少しずつ明瞭になっていった。しかし、回復に向かうのとは裏腹に、家族にはすきま風が吹き始める。
「長嶋さんの復帰時期を巡って家族間で意見が食い違いました。心配する多くのファンを早く安心させてあげたいと考えた一茂さんに対して、三奈さんは、お父さんのプライドや名誉を考え、完全に前の姿に戻るまでは公の場に立つべきではない、無理はさせたくないという考えでした」(前出・ベテラン記者)
2005年7月3日の東京ドーム・巨人-広島戦にミスターは姿を現した。ベージュのジャケットにストライプのネクタイを締めた長嶋さんが一茂に付き添われ、488日ぶりに公の場に姿を現すと東京ドームが大歓声に揺れた。