会長夫妻はもう90才を超えていた。事件当時、志のぶは日常生活に部分的な介助が必要な「要介護1」、芳雄は要介護の前段階である「要支援2」の認定を受けていた。食事の支度や介助をはじめ、日常の世話は政子がひとりで行っていたという。
そんな中、2年ほど前に太喜雄が脳梗塞で倒れる。
後遺症で足が不自由になった太喜雄は、運転免許証を返納。車を運転できなくなった夫に代わり、政子が会社や病院への送迎を行うようになった。
近所の住民は、家族のために家と会社を一日に何度も往復する政子の姿を見ていた。
北陸の片田舎。冬になれば、気温がぐっと下がる。空がうっすらと白み始める頃、政子は誰よりも先に会社に向かい暖房を入れる。そしてすぐに自宅に戻ると、台所に立って朝食の用意に取り掛かる。
朝食が終われば太喜雄を車に乗せて会社に向かうのだが、足が不自由な夫を車に乗せるのに10分ほどかかることもあったという。会社で経理業務をこなし、10時頃に自宅に戻る。義父母のオムツを交換するためだ。
歩くことはできるものの、手足の力が衰えたことで、オムツの着脱は政子の手助けが必要だった。オムツを脱がせて温かいタオルで下半身を拭い、再びオムツをはかせてズボンを元に戻す。冬の寒さの中でも、線の細い71才の政子の額に汗がにじむ。
そのあとはまた会社に戻り、昼に帰宅して、朝食同様に食事の世話がある。オムツを替えて会社に戻り、15時に帰宅してオムツを替え、また会社に戻って、帰宅してオムツを替えて…。
オムツ替えよりも大変なのが入浴だった。転んで骨折でもしようものなら、そのまま寝たきりになってしまう。細心の注意を払い、浴槽から出る時には体で支えながらの力仕事だったという。足が不自由な太喜雄を湯船に入れるのは、なおさら大変だったことだろう。この日常が2年も続いていたとなれば──。
捜査関係者は「介護疲れが動機の1つ」とみており、敦賀市長は昨年末の会見で、政子が「多重介護の状態にあった」と説明している。
介護が政子を苦しめていたのはたしかだろう。しかし、今回、現場を歩いてみて感じたことは、単に多重介護を苦にした事件と切り捨てるのは一面的すぎるということだった。
◆事件数日前に開かれた「家族会議」