ただ、1月いっぱいでCM契約がなくなったため、事務所に迷惑をかけないタイミングで小泉今日子が決断したのだと聞く。もちろん、そこには、自分の仕事も全部なくなってもいいという覚悟がある。
小泉や豊原がマスコミ宛てに出したコメントを読み解くと、唯一、報道統制への不満があったことが伝わってくる。「すべてをこの身で受け止める」は、「いままで守ってくれてありがとうございます。でももう私は自分の身は自分で守ります」という旅立ち宣言と私は読んだ。
さて、これまでにもさまざまな媒体で書いてきたが、私が新卒でラジオ局のリポーターの仕事を始めたのが1980年。その2年後に『私の16才』でデビューしたのが小泉今日子で、彼女は、前年秋にデビューした松本伊代を含め、堀ちえみ、石川秀美、早見優、中森明菜、新井薫子らと共に、「花の82年組」と呼ばれたものだ。
なぜ、レコード会社、芸能プロダクション各社がイチオシの女性アイドルを一斉にデビューさせたかというと、それは80年にデビューした松田聖子に対抗できる女性アイドルを誕生させるためだった。
髪型は横並びの聖子ちゃんカットで、衣装はフリフリ、アイドルスマイルを浮かべ、当時、各テレビ局、ラジオ局に存在した音楽賞の新人賞を順番に獲っていった彼女たち。
三田寛子、松居直美らを含め、多くの同期がいまも芸能界で活躍しているのは、ライバルでもあり、仲良しでもあった彼女たちが、それぞれ、誰かとかぶらない個性や才能を意識的に伸ばしていったからではないか。「お人形さん」と呼ばれることもあった当時の女性アイドルだが、82年組は芸能界全盛期で仕事もふんだんにあったからか、それぞれ「自分」をもっている女の子たちのように私には見えていた。
あまり比べたくはないのだが、その最たるものが小泉今日子だったのは確か。なんせ、デビュー曲の『私の16才』を、「こんな演歌みたいな歌、イヤだ」と“主張”していたのだから。
確かに小泉今日子は、なぜかデビュー曲も2曲目もカバー曲で、オリジナル曲でヒットを飛ばす同期を羨ましく思っていたのかもしれない。
とは言え、いまでも時折“お宝映像”としてオンエアされる『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)に初登場したときの小泉は、CM中、緊張の面持ちでスタンバイしているのに、フロアディレクターがカウントし始めると3秒前から完璧なアイドルスマイルを浮かべた、ある意味、プロ中のプロ。
昔話ばかりで恐縮だが、ラジオ局の文化放送が開催していた『新宿音楽祭』のステージでは、心無いファンから生卵をぶつけられるハプニングもあった。小泉今日子を狙ったものだったかは不明だが、そのとき「あんなにかわいい衣装が汚れてかわいそう。私に当たれば良かったのに」と言っていた中森明菜といちばん仲良しだった小泉今日子。タイプは異なるが、アイドル史の中で「枠にとらわれない」代表格がこの二人だったように思う。