父は取り調べで戦中のスパイ活動は認めたものの、戦後の諜報活動については一切を黙秘しました。白状すれば、すぐに釈放されたはず。なぜ、白状しなかったのか。それは、戦後のスパイ活動が国際法違反だからです。父は日本に泥を塗ってはならないと信念を貫き、口を閉ざしました。
もちろん中国公安は納得しません。拷問が繰り返されました。零下6度から7度の獄舎で身につけていたのは1枚の衣類だけ。20年に及ぶ獄中生活の栄養不足と強制労働で、身長が10cmも縮んでしまいました。
私たち家族も「日本の鬼の子」「反革命分子」と蔑まれ、差別を受けました。兄は無実の罪で9年間も投獄され、家財道具を売って手に入れたわずかな食べ物で餓えをしのぎました。
父はすべてを白状すれば、拷問から解放されて、私たち家族や日本に残した祖母とも再会できると分かっていたはずです。家族との再会と国の名誉その2つの選択の狭間で父はとても苦しみました。
20年ぶりに父と面会した私は、変わり果てた姿に驚きました。けれどこうも感じました。父はスパイとして、いえ日本人として信念を持っていたからこそ、拷問に耐え抜けたのではないか。その信念を支えたのが、子どものころから培った天皇陛下への忠誠心。戦後も帰国せず、たった1人で日本のための極秘任務を続けていたからこそ、純粋な忠誠心が薄れることがなかったのではないでしょうか。
1978年の日中平和友好条約締結で父と兄は特赦を受け、私たちは帰国できました。でも何者かが父の軍人恩給を横領していたため、夢に見た祖国でも苦しい生活を強いられました。それでも父は戦後の活動については何も語りませんでした。死ぬまで秘密を守って、日本の名誉を汚さなかったのです。