そんな松本を柳川は慕った。松本門下のKが柳川の秘書となってからは、二人の関係はいっそう近くなった。Kは京都の都ホテルで松本が開いていた勉強会「憂国の集い」に柳川を参加させるようになる。
「松本は韓国の朴正熙政権と独自のパイプを持ち、満鉄や日本軍の特務におった経験から台湾の国民党政権ともつながりが深かった。どちらも当時は反共を国是とする国。勉強会でもアジアにおける反共思想の重要性について講義することが多かったんです。柳川会長は何かを発言するわけではないけども、よう聞いて影響を受けてましたわ。松本は、政治家とのつきあいも深く、私が柳川の秘書になってからは松本と親しい政治家を柳川に付け替えることをやっていました」
松本の歩みをなぞるかのように、柳川は韓国とのパイプを深め、1974年には大阪に日韓友愛親善会を立ち上げた。その機関紙にこう書いている。
〈「われ何をなすべきか」のテーマに遅まきながら私は目覚め、少しもためらうことなく日韓両国のために私の余生をささげたいと考えている。自分の過去を顧みる時、私自身も在日韓国人であるがゆえに差別・偏見にいくたびとなく苦汁をなめ、そのせいだけではないのだが、いわゆる無茶もして来た。だが今は違う。在日韓国人の一人として、私は日本国に対しても私がすべきことがあれば進んでやろうという気構えである〉
◆日本人より日本人らしく
柳川の秘書だったKの大阪市内の事務所には、幾度となく通った。Kは取材に丁寧に応じてくれ、記憶も確かだ。親しみを込めてなのだろう、柳川のことを「おっさん」と呼ぶ。