松本らが石碑を建ててまもなく嘉数の高台を訪ねた男がいる。1971年に服役を終えて金沢刑務所を出所した柳川次郎だ。
同行した元秘書のKは、松本の門下で日民同のメンバーでもあった。
「おっさん(=柳川)は石碑の由来を聞くと、『ありがとう。韓国人のためにここまでしてくれて』と話し、日民同の活動に感謝していました。はるか沖縄で同じ韓国人が戦死したということに驚き、感慨深そうにもしていましたね」
1969年に獄中で柳川組の解散に追い込まれた柳川は、社会に復帰こそしたが、自分はこれからどうやって生きればいいのかを思い悩んでいた。元秘書のKが語る。
「この頃のおっさんは悶々としていたんです。柳川組を解散してもう暴力という手段は使えん。そうしたら、なにを持って名をなすべきか。韓国人として生きたらいいのか、それとも任侠の世界に通じる国士として生きたらいいのか。私に政治や歴史について色々と聞いてくることもありました」
迷う柳川を導いたメンターとも言えるのが柳川より9つ上の松本明重だった。1914年に愛媛県に生まれた松本は、戦前に大陸に渡り満鉄などでの勤務を経て戦時中は中支那派遣軍の特務機関にいたとされる。太平洋戦争末期には、日本軍の軍事情報が連合国軍に筒抜けとなり、朝鮮半島出身者がスパイと疑われ続々と投獄されるなかで、その多くを京都のホテルに匿ったことから「朝鮮人のボス」と呼ばれた人物である。
戦後の松本は佐川急便創業者の佐川清をスポンサーとし、京都の政財界のフィクサーとも呼べるほどの影響力を持ちながら、一方で戦地に眠る兵士らの遺骨収集に熱心に取り組む義侠心を持ち続けていた。