1984年当時の原辰徳のバッティング(写真:時事通信フォト)
世界のホームラン王が指揮を執る元で、『4番サード・原』が巨人を日本一へ導き、“日米決戦”を制して世界一になる──。フロントやファンはそんな夢を描いていた。原自身も、そんな雰囲気を感じ取っていたようだ。
〈フロントの人たちとか、ジャイアンツファンの人たちとかは、「当然優勝するんだ。それで日米決戦だ」というふうに見てるでしょう。そのへんのプレッシャーは感じるけど、もし、その夢が実現したときの喜びもまた大きいでしょうね〉(週刊読売・1984年3月11日号)
王監督も、4年目を迎える原に大きな期待を寄せていた。
〈原にはやはりスーパースターになってもらいたいんだよな。『原が打てないんじゃ誰も打てるはずがない。アイツが捕れないんじゃヒットだよ』とみんなを納得させるような選手になってほしいんだよ〉(Number・1984年4月5日号)
だが、この年の原は開幕から不調に陥り、チームも勝率5割に届かない状態が続く。
5月3日の大洋戦では、6対7と1点を追う9回無死一、二塁で打席が回るも、バントのサインが出る。4番・原はプロ初の犠打を成功させるも、球場には微妙な空気が流れた。
〈五万人を飲み込んだ後楽園スタヂアムは、一瞬静まり、そして、ざわめき、落胆、拍手とめまぐるしい変化を見せた〉(スポーツニッポン・1984年5月4日付)
1年前の5月5日、同じ後楽園球場で阪神の山本和行から逆転サヨナラ本塁打を放った輝きは消えていた。
5月16日の中日戦では、延長10回裏、2死二塁で3番・篠塚利夫が敬遠され、4番・原と勝負。結果は四球だったが、この日も原はノーヒットでチームも敗戦。翌17日も4打数0安打に終わり、打率は2割4分に下降。打撃30傑から姿を消した。