夫がそれだけ気を使ったことからもわかるように、望まれた嫁ではなかった。小姑からは「白い豆でも姑が黒といったら黒なのだ」と釘を刺され、料理を作れば姑から「こんな薄い、水くさい、味のない料理をよくも作れるもんだ」と非難された。
「私たちも年ですから、健康を考えて薄味にしているんです」と言えば、「口答えするのか」となじられた。
「でも、お姑さんなんてそういうものだと思っていたので、驚きませんでした。往々にして男性はみなそうでしょうが、主人はマザコンでしたし、そのかわいい息子を奪った嫁が憎いのは仕方ないですよね。しかも、ドラマで姑の悪口ばかり書いている。姑が望んでいた目立たない、従順な嫁にはほど遠かったんです」
嫁姑問題を描いた『渡る世間は鬼ばかり』や『となりの芝生』のモチーフに苦労することはなかった。
1989(平成元)年9月、結婚生活23年目にして夫を亡くしたあと、橋田は実家が大好きだった夫のために墓を改修し、墓碑を建立、岩崎さんのお骨も納めたが、その墓に「あんたは入れない」と岩崎家から告げられた。
「驚きましたけど、ああ、そうですか、と。だって、死んだあとまで肩身の狭い思いをしたくないじゃないですか。主人には、同じお墓に入らないで悪いなという後ろめたさもなくなって、私は自由にしていいんですもの、ありがたいと思いましたよ」
嫁として大変なこともあったが、結婚していたからこそ、また、夫に「おれの目の前では原稿用紙を広げてはならぬ」と言われていたからこそ、仕事ができたと感謝を忘れない。
「自分でもどれくらい書いたか、正確にはわからない」という橋田作品だが、320本は優に超える。
◆結婚が嫌で女性初の脚本家に
脚本家を志したそもそもの理由は、結婚したくないからだった。
「戦前からセラミックの研究をしていた父が、弟子と私を結婚させようとしているのがわかって、それが嫌で大学に進み、演劇の勉強をしているうちに、友人からシナリオの勉強をしながらお給料がもらえる映画会社があると教えられ、試験を受けようということになったんです」
松竹が初めて女性を採用した年で、合格した。
「ところが、それが不幸の始まり(笑い)。会社へ行くと、“女の脚本家だと? 女の気持ちだって、男の方がずっとうまく書けるんだぞ。なんで会社へ来るんだ”って。ひどい差別です。当時の会社に女性の居場所はありませんでした」
出社を諦め、全国のユースホステルを泊まり歩いては出会う人々を見つめた。前後して少女小説を書いて暮らすうちに、民放テレビ局が開局、脚本を書く仕事が増えていった。