◆“見殺し”にされ続けた歴史
私は、長くこの邦人救出問題を追っている。2015年秋に出版した『日本、遥かなり』(PHP研究所)は副題に“エルトゥールルの「奇跡」と邦人救出の「迷走」”とあるように迷走を続ける日本の邦人救出のお粗末さを告発したノンフィクションである。
1985年のイラク・イラン戦争でのテヘランからの脱出、1990年の湾岸戦争、1994年のイエメン内戦、2011年のリビア動乱という4つの戦争・動乱での邦人の姿を著したものだ。いずれも、日本政府は助けを待つ邦人を「見殺し」にした。日本政府から見捨てられ、現地に取り残された邦人は、すべて「他国」によって救出されている。自国の国民さえ助けられない日本は、国家のテイを成していないと言われても反論はできないだろう。
イラク・イラン戦争で邦人救出のために当時の伊藤忠イスタンブール事務所長の森永堯氏がトルコのトゥルグット・オザル首相に働きかけ、トルコ航空の善意と勇気によってやっと救出が成った時の教訓は、残念ながら現在も生かされていない。私は今回の武漢からの邦人救出を機に、根本的見直しを提言したい。
武漢からの救出は、あくまで新型コロナウィルスという「感染」からの退避である。この特殊事情によって、日本はやっと邦人救出をおこなうことができた。だが、これまでの邦人救出が不可能だった理由は、それが戦争、あるいは動乱によって生じた事象だったからにほかならない。
仮に今回もこの救出劇が戦争や動乱によるものだったとしたら、邦人は「見殺し」にされる。時期が早ければ、チャーター機や政府専用機も可能だ。だが、それを過ぎれば、各国とも軍が動く。イラク・イラン戦争でも、各国は軍が動き、次々と自国民を救出した。
その場合は、日本では自衛隊機だ。だが、自衛隊は来ない。いや、「来られない」のである。これまで、日本は早期のチャーター機による邦人救出には2度、成功している。1998年5月、インドネシア暴動で日本政府がチャーターした航空機や民間機等で邦人4995人を避難させ、1999年3月の東ティモール暴動でも、邦人23名が政府の民間チャーター機でインドネシアに退避している。
いずれも「早期」のチャーター機による「救出」である。だが、これが「早期」でなければ、あるいは「戦争」の場合はどうなるか。1994年のイエメン内戦、2011年のリビア内乱の場合の時のように一切、無理であることを拙著で詳述させてもらった。
実は、非常時に対応するために、政府は何度も自衛隊法の改正をおこなっている。イエメン内戦後の1994年11月には、自衛隊法第百条の改正によって外国での災害、騒乱その他の緊急事態に際して、輸送の安全が確保されている時は、航空機による邦人輸送をおこなうことが可能になった。だが、あくまで「輸送の安全」が確保されていることが条件だった。
さらに1999年には自衛隊法百条の八を改正し、在外邦人等の輸送に自衛隊の船舶と、その船舶に搭載されたヘリコプターの使用も可能になる。隊員と邦人などの生命を守るために、必要最小限の武器使用も可能になった。大きな進歩である。
だが、それでも邦人救出は実現しない。自衛隊が邦人の救出に向かうには、「3つの条件」が課せられているからだ。