〈自由業の人がサラリーマンを困らせちゃいけません。向こうは会社を背負ってきているんですから。僕はそのとき、かえって変わったことができると喜んでました〉(日刊スポーツ・1998年1月25日付)
番組中止の危機を〈かえって変わったことができる〉と捉えた結果、驚異的な視聴率が生まれたのだ。この時と同じように、今回のセンバツ無観客試合に対しても、萩本はピンチをチャンスに変える提案をしている。
〈吹奏楽部のブラスバンドの演奏を録音してさ、それに、たった一人のトランペット応援もいいな。応援団やチアリーディングは映像で行けるよ。オーロラビジョンから応援を流そうよ。声で応援の他にも、赤や黄色の大きいプラカードに応援のメッセージを書いてスタンドに飾ろう。(中略)こうすればみんなで甲子園で応援してることになるじゃない〉
観客がいなくても、録音や映像を活用すれば、球場で選手を応援できるというアイデアを綴った。これには、無観客だからこその利点があるという。
〈声の応援、今までは球場の大声援の声にかき消されて、お父さんやお母さんの声が届かなかったけど、今回は無観客なので録音した声は確実に届くよ〉
その上で、経済的な損失を食い留めるための施策も出した。
〈でもこれは声の入場料をいただくことにするよ。例えば「~男!大きいのたのむよ~」。それは、甲子園球場、高野連、新聞社の損害を応援することになるんだ。応援する地元の農協さんも、地元の産物(例えばイチゴ)を応援のように「○○のイチゴは甘くてうまいよ~」と叫んでもらい、声の入場料を多めにいただけると嬉しいね。みんなの声や映像やプラカードを甲子園に運ぶ時、観光バスを使ってほしいな。観光バス会社が泣いてたもん〉
オーロラビジョンに流す応援に“声の入場料”を取ることで、経済損失を補おうという発想だ。出場校の応援に金銭が絡むことへの賛否は予想される。しかし、単なる無観客試合を行なうより、よほど有益な試みではないか。そもそも、高校から甲子園まで応援に駆け付ける遠征費が浮くため、それを“声の入場料”に変えれば、冷え込む経済への一助になる。実現するかどうかは別として、こうした発想事態が野球を愛する人たちにとって、うれしいものであるのは間違いないだろう。