◆形見のギターで遺影に向かい熱唱
裕哉が尾崎と妻・Aさんの間に生まれたのは1989年7月。彼は誕生前から父の歌を聴いて育ってきた。
「胎教にと、豊さんが奥さんのお腹に向かって歌っていたんです。『I LOVE YOU』を聴かせると、お腹の中の裕哉くんはよく動いたそうです」(音楽関係者)
しかし出産後、一家3人の幸せな暮らしは長くは続かなかった。尾崎の女性問題が取り沙汰されたからだ。
相手は、女優の斉藤由貴(49才)。当時、独身だった斉藤との逢瀬は鎌倉や小樽など各地で目撃された。尾崎は別居を選び、離婚協議に入るものの、泥沼化。結果的に、尾崎とAさんが離婚することはなく、斉藤との関係は曖昧なままに。
そして1992年4月25日、あの“事件”が起きた。早朝5時、東京・足立区の自宅近くの民家の軒先で、傷だらけになった全裸の尾崎が発見された。近くの病院に搬送されるが、その日の午後、帰らぬ人となった。26才での夭逝。当時、裕哉はまだ2才だった。天才アーティストの突然の死は世間を大きく騒がせた。
「奥さんとの不和が原因とも報道され、尾崎家には嫌がらせの電話が殺到しました。“子供を誘拐する”という脅迫まであったそうです。Aさんは、“日本にいられる状態ではない”と、幼い裕哉さんを連れて渡米しました」(別の音楽関係者)
米・ニューヨークで生活を始めてしばらく、裕哉は自分の父が伝説のアーティストであることを知らぬまま育った。
しかし小学生の頃、ふとしたきっかけで父のことを知り、インターネットで調べ、曲を全て聴くようになったという。裕哉が中学に上がると、彼が紛れもなく“尾崎の息子”であることを、Aさんは思い知ることになる。
「ある日、母子でカラオケに行った時のこと。裕哉さんは父親の曲を完璧に歌い上げたそうです。声質から息継ぎまで、父親とまったく同じで、Aさんは驚愕したといいます」(前出・音楽関係者)
以後、裕哉はギターやピアノといった楽器に興味を持ち、自分で演奏するようになった。15才で帰国し、アメリカンスクールに入学した彼は、慶應義塾大学環境情報学部へ進学。学業の傍ら、バンドやボランティア活動に精を出した。
この頃、裕哉は尾崎の実家にも足を運んでいた。尾崎の父はかつて女性セブンにこう語っている。
「19才の時、裕哉が実家に来たんです。その時に持ってきていたのは、豊の形見のギターでした。何か一曲歌ってくれとお願いしたら、彼は遺影の前で『十七歳の地図』を熱唱してくれたんです。似ているなんて話じゃない。豊が今、ここにいるのかと思いました」