「大阪・心斎橋にある百貨店『大丸』の紳士服売り場で籠池氏がアルバイトをしていたとき、諄子さんが1階の宝石売り場で働いていたのが知り合ったきっかけだったそうです」(夫妻の知人)
森友学園の創設者だった諄子氏の父・寛氏もまた陸軍士官学校を出ていた。1950年に珠算教室を開いていた寛氏が日本初の学校法人幼稚園『塚本幼稚園』を開園したのは、地域住民から強い要望があったからだ。寛氏は家財を売って資金を捻出し、子供たちには「お腹いっぱい食べさせることが何より」と貫いた。その精神は、娘である諄子氏にも伝わった。
「諄子さんは『食育』にこだわりがあって、自身の子供たちに牛乳を毎日1パック飲ませたり、ほうれん草を一把丸ごと食べさせ、巨大なめざし3尾が食卓にのぼることもあったそうです」(前出・夫妻の知人)
結婚後すぐに長男に恵まれたが、26才の時に静脈血栓を患い長期入院。医師からは「もう子供は産まないほうがいい」という厳しい宣告を受けた。入院中の諄子氏は自らの運命を呪い、友人の紹介で知った保守系の新宗教『生長の家』に傾倒。その後、病気が治ったのも、「宗教の教えのおかげだった」と彼女は述懐している。
◆夫妻を襲った突然の不幸
1983年、寛氏の誘いを受けた泰典氏は塚本幼稚園の副園長に就任し、幼児教育に身を投じることになった。
「籠池さんは真面目で実直な人柄で物腰も柔らかく、いつも笑顔で子供と触れ合っていました。寛さんから『まずは掃除が基本や』と叩きこまれた籠池さんは毎日、園内のトイレ掃除や雑巾がけに明け暮れてましたよ」(当時の幼稚園関係者)
一方、公務員時代に比べて給料は激減。当時、すでに夫妻には2人の子供がおり、諄子氏のお腹には3人目の命が宿っていたが、身重の妻がアルバイトを始めないといけないほど生活は困窮したという。
それでも、「高楊枝」で邁進していた夫妻に突如、悲劇が訪れる。1995年、検査のため入院していた寛氏がそのまま帰らぬ人になると、寛氏が生前に進めた事業拡大による多額の負債が発覚したのだ。