母が自殺を図った夜、押し入れの中で読み続けたのが井上靖著『あすなろ物語』。浪人時代は、大阪の中之島図書館に入り浸っていた。
「本を読むようになったのは、ものすごい読書家だったおやじの影響です。愛媛県の田舎の農家の生まれですし、20歳で徴兵されましたから、上の学校には行けなかった。けど、勉強したかったんでしょうね。自分は言葉を知らないというので、一生懸命、小説を読んだ。森鴎外の『雁』とか『澁江抽齋』。トルストイの『戦争と平和』。20代は独立するために懸命に働きながら、とにかく小説を読んだそうです」
『ベルグソン全集』やカントも読む父は、酔うと帰りに子ども向けの世界文学全集などから2、3冊ずつ買ってきた。『秘密の花園』『巌窟王』。中でも忘れがたいのが『赤毛のアン』だ。
「おやじが『赤毛のアン』を読みながら、いつも同じところにくると泣いていたのを覚えています」
大学ではテニスに没頭、卒業して広告代理店に入ってからも本を読む時間のない生活を送っていた。作家になろうと考えたのは、重症のパニック障害を患い、会社に行けなくなってからのことだ。
「自分に何ができるか考えたとき、小説書いてみようかなあ、という考えが浮かんだんですね。たまたま書店で文芸誌を手に取ったことと、自分はたくさん小説を読んできた、という思いがありましたから。結婚して子ども2人いて、普通に考えたら正気の沙汰じゃない。病気にならなかったら、多分小説家になろうなんて考えなかったでしょうね」
同人誌を主宰する池上義一氏に紹介され、才能を見出される。1977年に「泥の河」で太宰賞を、翌1978年「螢川」で芥川賞を受賞するが、直後に結核で2年間の療養生活を余儀なくされる。芥川賞の半年後には、『泥の河』『螢川』の版元である筑摩書房が倒産していた。
「ひどい話やなあと思ったけど、腹を立ててもしょうがないですから。若かったし、病気さえ治ればがんばってまた小説を書こうと、ほかの出版社から印税の前借りをしたりしてなんとか乗り越えました」