もちろんそんなことは師匠には秘密だ。「だったらもう一局」と先崎が言うのも無理もないのである。しかし再び林葉は問答無用で弟弟子の頭を引っ叩く。

 私も林葉と何局か指した。小説に挫折し、将棋に嵌った私は、ただひたすら朝から、真夜中まで将棋を指し続けていた。林葉は煙草に弱いという噂が常連たちの間でもっぱらだった。中学1年生の女子なのだから、それも当たり前かもしれない。道場は喫煙可で相手に煙草の煙を吹き付けたって反則ではない。

 ある将棋の終盤戦で少し悪くなった私は奥の手とばかりに林葉に煙草の煙を吹きかけた。勝つためには反則以外は何だってする。すると俯いて将棋盤を眺めていた林葉が、煙に反応した。切り裂くような鋭い視線で、私をにらみ据えたのである。

◆2019年──赤いワンピースの彼女は現れた

 2014年の“遺言”以来、私は常に林葉の動向を気にしていた。新聞紙上に、いつ最悪の報せが流れても、それは仕方がないと諦めていた。その頃にネットに流れた林葉の写真は、それはあまりにもひどいもので、まるで老婆のようだった。その顔を見れば誰もが、これはどうしようもないなと思ったことだろう。

 しかし最悪の報は流れないまま半年が過ぎ、やがて1年が過ぎていった。そして何の情報もないまま、いつの間にか5年の月日が流れていた。

 その5年間、決して積極的というわけではなかったが、それでも私は林葉を探した。

 なかなかコンタクトをとることはできないでいた。それがひょんなことからつながったのが今年の初夏、あるパーティーのあと将棋関係者と飲んでいた。すると酔っ払ったある1人が「ほらっ」と私に携帯を差し出した。

「もしもし」と相手もわからないまま私は言った。「もしもし」と微かに聞き覚えのある甲高い声が響いた。そしてその本人は「林葉です。林葉直子です」と続けるのであった。電話の声を聴きながら、連絡が取れたからには会いに行かなければならないと考えた。将棋界から、あるいは世間から、完全に消えてしまった林葉直子を再発見するのだ。

 9月初旬。私は東京の自宅を出て6時間かけて新幹線で博多駅へと向かった。それから林葉と待ち合わせたホテルへ。博多は小雨が降りだしていた。時間通りに林葉は現れた。インドのサリー風の赤いワンピースを身にまとっている。げっそりと頬がこけ、やせ細ってはいるが、末期の肝硬変を5年以上も生き延びてきたのだからそれも無理はない。挨拶をする。二十数年ぶりの再会だ。しかしその大きな時間は、目と目が合った瞬間に綿あめのようにどこかへ溶けていってしまった。

関連記事

トピックス

和久井学被告が抱えていた恐ろしいほどの“復讐心”
「プラトニックな関係ならいいよ」和久井被告(52)が告白したキャバクラ経営被害女性からの“返答” 月収20〜30万円、実家暮らしの被告人が「結婚を疑わなかった理由」【新宿タワマン殺人・公判】
NEWSポストセブン
松竹芸能所属時のよゐこ宣材写真(事務所HPより)
《「よゐこ」の現在》濱口優は独立後『ノンストップ!』レギュラー終了でYouTubeにシフト…事務所残留の有野晋哉は地上波で新番組スタート
NEWSポストセブン
山下市郎容疑者(41)はなぜ凶行に走ったのか。その背景には男の”暴力性”や”執着心”があった
「あいつは俺の推し。あんな女、ほかにはいない」山下市郎容疑者の被害者への“ガチ恋”が強烈な殺意に変わった背景〈キレ癖、暴力性、執着心〉【浜松市ガールズバー刺殺】
NEWSポストセブン
英国の大学に通う中国人の留学生が性的暴行の罪で有罪に
「意識が朦朧とした女性が『STOP(やめて)』と抵抗して…」陪審員が涙した“英国史上最悪のレイプ犯の証拠動画”の存在《中国人留学生被告に終身刑言い渡し》
NEWSポストセブン
犯人の顔はなぜ危険人物に見えるのか(写真提供/イメージマート)
元刑事が語る“被疑者の顔” 「殺人事件を起こした犯人は”独特の目“をしているからすぐにわかる」その顔つきが変わる瞬間
NEWSポストセブン
早朝のJR埼京線で事件は起きた(イメージ、時事通信フォト)
《「歌舞伎町弁護士」に切実訴え》早朝のJR埼京線で「痴漢なんてやっていません」一貫して否認する依頼者…警察官が冷たく言い放った一言
NEWSポストセブン
降谷健志の不倫離婚から1年半
《降谷健志の不倫離婚から1年半の現在》MEGUMIが「古谷姓」を名乗り続ける理由、「役者の仕事が無く悩んでいた時期に…」グラドルからブルーリボン女優への転身
NEWSポストセブン
橋本環奈と中川大志が結婚へ
《橋本環奈と中川大志が結婚へ》破局説流れるなかでのプロポーズに「涙のYES」 “3億円マンション”で育んだ居心地の良い暮らし
NEWSポストセブン
10年に及ぶ山口組分裂抗争は終結したが…(司忍組長。時事通信フォト)
【全国のヤクザが司忍組長に暑中見舞い】六代目山口組が進める「平和共存外交」の全貌 抗争終結宣言も駅には多数の警官が厳重警戒
NEWSポストセブン
遠野なぎこ(本人のインスタグラムより)
《前所属事務所代表も困惑》遠野なぎこの安否がわからない…「親族にも電話が繋がらない」「警察から連絡はない」遺体が発見された部屋は「近いうちに特殊清掃が入る予定」
NEWSポストセブン
放送作家でコラムニストの山田美保子さんが、さまざまな障壁を乗り越えてきた女性たちについて綴る
《佐々木希が渡部建の騒動への思いをストレートに吐露》安達祐実、梅宮アンナ、加藤綾菜…いろいろあっても流されず、自分で選択してきた女性たちの強さ
女性セブン
(イメージ、GFdays/イメージマート)
《「歌舞伎町弁護士」が見た恐怖事例》「1億5000万円を食い物に」地主の息子がガールズバーで盛られた「睡眠薬入りカクテル」
NEWSポストセブン