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2020.01.13 16:00  週刊ポスト

ヤクザと大阪の関係 江戸幕府への「反権力気質」がルーツ

 柳川組が本拠地としたのは、梅田を中心とする大阪のキタ。鉄道各社が乗り入れる梅田は大阪きってのターミナルであり、戦後の阪神デパートの裏には巨大な闇市が広がっていた。ここを押さえたことで、柳川組は巨大な資金力を得たのである。

 1959年に山口組の傘下に入り、明友会など反山口組の組織の壊滅に貢献。その後は北陸や山陰、東海、北海道と進出を続けた。だが、あまりの急拡大に警察の徹底的な取り締まりの対象とされ、1969年に解散へ追い込まれた。

 その後、柳川は韓国政界にも深く繋がり、日韓外交でも暗躍。1983年に中曽根康弘が日本の首相として初の公式訪韓をした際には、その地ならしを柳川が担ったとも言われる。柳川次郎を戦後混乱期の大阪を代表するヤクザとすれば、バブル時代の熟れ切った大阪で経済ヤクザの代表格として名を馳せたのが、山口組の若頭だった宅見組組長の宅見勝である。

 山口組きっての武闘派として知られた山本健一に見出され直参に抜擢されると、1989年に渡辺芳則が山口組の五代目に就任するのに大きく貢献。ナンバー2にあたる若頭となった。ミナミを拠点とし、不動産バブルに沸く大阪で数多くの地上げを手がけ、抜群の資金力を誇った。前出の鈴木氏が語る。

「全盛期の宅見組の勢力は北海道から九州まで全国に及び、傘下には多数のフロント企業や右翼、総会屋がいました。金融や不動産などカタギの会社にも複数関与し、表社会に強い影響力を持っていた。その一端が垣間見えるのが、建築業界です。商社やゼネコンが大阪で大型工事を計画する際には、事前に宅見組長に話を通すのが暗黙のルールになっていたほどです」

 その宅見は1997年に山口組内部の勢力争いにより、新神戸駅そばのホテルのラウンジで射殺された。以後、山口組は名古屋の弘道会が主導権を握る体制へと移行したが、それはトヨタをはじめとする名古屋経済に大阪経済が後塵を拝するようになった時期と符合する。

 ミナミの歓楽街に近い島之内といえば、かつては日本一の組事務所の密集地と言われた場所だ。それがいまや、中国をはじめ海外からの観光客を目当てにする安宿街へと変貌した。大阪のヤクザも時代の変化にさらされている。(文中一部敬称略)

◆構成/竹中明洋(ジャーナリスト)

※週刊ポスト2020年1月17・24日号

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