◆スターだった妹は父を尊敬していた
〈感激もなしに着せられたキリスト教という肉のシャツ〉と終生対峙した寛夫は、朝日放送のプロデューサーとして活躍する傍ら創作を続け、従兄・大中恩作曲の『サッちゃん』の詩や短篇小説、ドラマ『ケンチとすみれ』や『あひるの学校』の脚本など、特に退社後は家族のために何でも書いた。
そんな父の仕事をふり返り、その根底に宿る物悲しさや優しさを、〈啓はいつも楽しいことおかしいことを見つけるのがうまい〉と評された娘は笑い話を交えつつ、丁寧に汲みとろうとする。
「父の作品はどこか淋しげで夕暮れの匂いがするんです。特に詩では弱い自分を解放できているというか。
妹は私と違って、父と仲が良いほうで、父を尊敬もしていたようです。父が妹の話を書く度、〈今度書いたらぶっ殺す〉と言いつつ、〈人に感動を与えるには、これくらい血を流さなきゃ、いや流してみたい〉と彼女もエッセイで書いていた。妹が宝塚に入ったのも小学生の時からの宝塚ファンだった父の影響ですし、後年〈娘の七光〉で宝塚絡みの仕事を父が頂戴したときも、父は照れながらも喜んでいたように思います」
一家は寛夫の東京転勤後、鵠沼等々を転々とし、昭和33年には中野区に転居。全20棟が並ぶ長屋風の団地の、一番奥が阿川家だった。
「特に執筆中の弘之さんは怖くて、阿川さんちの前は静かに通らないと怒られるというのが団地の申し送り事項でした。佐和子ちゃんはよく一緒にうちでご飯を食べていた仲です」
♪バナナを半分しか~食べられず、『びりの きもち』もよくわかる寛夫の作家性に言及した三浦氏の弔事がとてもいい。〈君は臆病な、それでも無視することができなくて、遠くからキリストを眺めている人だった〉〈そのような中で、君は文学という視点を発見した。そこからは美しい自然と、そこの中で生きる健気で、愛すべき人の姿をかいま見ることができた。君が文学を天職と選んだのは、そのためであろう〉……。