柳川の生涯は、既に幾人かによって描かれているが、仁侠物語の延長で書かれたものが多く、脚色も少なくない。生前の柳川を知る関係者への取材やわずかな資料をもとに辿ると、柳川は1923年(大正12年)、日本の植民地統治下の釜山で生まれた。父を梁在江、母を河舟淑といい、先に大阪に出稼ぎに出ていた父を追って7歳の時に母や弟とともに海峡を渡ったとされる。一家は、現在の豊中市に落ち着いた。
当時の大阪は、1925年に東京を上回る人口を持つ大大阪となり、「東洋のマンチェスター」と称される商工業都市だった。そこへ続々と半島出身者たちが流れ込み、大阪市内のその数は、1930年の7万7千人から1940年には21万5千人に膨れ上がっていた。
柳川の父もそうした一人だったわけだが、工場労働者ではなく、野菜の行商をすることで生活の糧を得ていた。柳川は地元の小中学校を経て城東職工学校に進学した。
関係者の話では卒業はしておらず、戦時中のわずかな期間、釜山に戻っていたようだ。柳川の死後に戸籍を確認した元秘書によると、この時期に韓国人女性との間に子をもうけた形跡があったという。
ただし、すぐに子は亡くなり、柳川は女性を残して再び海峡を渡った。
◆「みんなで一緒に死のうや」
終戦は大分県の中津で迎えた。陸軍の要請から、神戸製鋼が航空機に使用するジュラルミン板を製造する工場を中津に建設することになり、その建設現場で父や弟とともに働いていたという。