誰よりも野球に没頭する人生を送りながら、選手としては日蔭を歩いてきた。かつて絶大な強さと人気を誇ったPL学園では1年生の秋から左肩の痛みに苦しみ、2年生時に手術に踏み切ったが、最後まで痛みは消えなかった。
あの伝説として甲子園に刻まれている1998年夏のPL対横浜の一戦は、主将ながら三塁コーチとしてグラウンドに立った。試合には途中出場したが、延長17回の末、PL学園は力尽きる。
プロ入り後は実働6年で放った安打はわずか37。二リーグ制となって以降、現役時代の通算安打数が最も少ない監督だ。
「37安打しか打てなかった事実はコンプレックスとして常に抱えています。指導者になる時、その部分はすごく気にしました。名選手が必ずしも名コーチとは限らないのがこの世界ですが、そうは言っても、指導者の現役時代の成績によって、信頼は大きく違う。現役時代の自分が、ふたりの指導者から同じ指導を受けたとしたら、どうしても実績のあるコーチの声に耳を傾けますから」
平石は現役時代、ただ白球を我武者羅に追うのではなく、技術理論を学び、組織としていかに9人が機能して戦うかを考えるタイプの野球人だった。
「上に立つ指導者に必要な条件があるとすれば、それは引き出しの多さですよね。だからといって、こちらの考えを押しつけるだけでなく、時には黙って見守ることも大事になる。監督として一番大切なのは、選手の変化に気付いてあげることだと思います」
平石の「引き出し」は、選手時代の“実績の無さ”や、PL時代の「怪我」「控えの主将」という経歴によって増えたのだろう。
インタビューの前日、楽天の本拠地・仙台に向かうには、“最悪”に近いタイミングだった。前日まで10連敗し、首位からあっという間に転落。その日のナイトゲームに敗れれば球団ワーストとなる11連敗となり、借金生活に突入するところだった。
そこに救世主が現れた。右ヒジの手術後、復帰登板となった則本昂大が好投し、長いトンネルを脱出した。