ご自身の身長ほどもある雪だるまと並ばれた愛子さま(写真/宮内庁提供)
被災地訪問で両陛下に助言を
「振り返れば、長い歴史を持つ日本の皇室において、“ビジネスマンのキャリアを持って天皇家の一員になられた方”は、雅子さまのほかにいらっしゃいません。美智子さまは大学ご卒業後に就職はされず、学業や研究を続けるなかで皇太子妃となられた。紀子さまは大学院に在学中に秋篠宮さまと結婚されました。
雅子さまは自らの経験から、これからの皇族には“社会人としての経験が必要”と痛感されているのに加え、自分自身の“仕事への強い思い入れ”もあり、愛子さまの実務職への就職を後押しされたのでしょう」(皇室関係者)
雅子さまは、ハーバード大学を卒業後、東京大学に学士入学し、外交官試験に合格。外務省に入省され、華々しいキャリアを積まれてきた。
「陛下は『外交官として働くのも、皇室の一員になるのも、国のために働くという意味では同じではないですか』と雅子さまにプロポーズされたそうです。一度は結婚を断られた雅子さまも、それならばとプロポーズを受けられた。雅子さまが結婚後に描いていたのは、『皇室外交』でご活躍される未来だったでしょう」(前出・皇室記者)
ところが雅子さまはお世継ぎ問題に対する過大なプレッシャーを受けられ、2004年、適応障害の診断を公表された。前出の宮内庁関係者が振り返る。
「当時、皇室の公務は要請に応える、いわば受動的なものとされてきました。しかし、雅子さまは能動的、自発的に皇室の仕事に向き合いたいと考えられていたといいます。雅子さまによって何よりも耐え難かったのは、“仕事をしたい”という意欲そのものが否定されたことだったのではないかと拝察しています」
2005年、当時皇太子だった陛下はお誕生日会見で、「時代に即した新たな公務を雅子さまと模索していきたい」という趣旨のご発言をされた。
「雅子さまのお気持ちをフォローされたのでしょう。仕事に対する熱意は、適応障害になられてからも変わらないはずです。ご体調が許さずとも、ご一家のなかでは“仕事に取り組みたい”という話をされていたのではないでしょうか。その姿勢はおのずと愛子さまに影響を与えられたでしょう」(前出・宮内庁関係者)
愛子さまの具体的な業務内容や勤務形態は、有給かどうかも含めて決まっておらず、一般の職員と同じようなフルタイムでの勤務は想定していないという。
「愛子さまは当面、ご公務と皇族としてのご活動との兼ね合いを考慮しながら勤務されるとみられています。雅子さまには、社会人としてキャリアを積んでこられた自負と誇りがおありでしょうから、その誇りを愛子さまに託されたのではないでしょうか。
人生の岐路にあたり、天皇家の長子であればどのような選択肢でも実現できたはずです。それでもあえて実務職への就職という道を選ばれたのは、雅子さまが心を鬼にして“働きなさい”と激励されたからでしょう」(別の宮内庁関係者)
ご卒業後すぐに就職され、社会人経験を積まれることは、今後のご活動に生きるだろう。
「将来的に皇族数が減少し、愛子さまが皇室のご活動の中心を担われることは自明で、今後、仕事と公務の割合は変化することになるでしょう。早い段階で就職をされ、仕事に邁進されることは、むしろ愛子さまにとってプラスになります。外交官経験を海外訪問や海外の要人接遇に生かされてきた雅子さまのように、愛子さまも、日赤の経験を公務に生かされるでしょう」(前出・皇室記者)
日赤は、日本全国で赤十字病院など医療機関を運営するほか、大地震や台風などの自然災害が発生した際には救援活動も行う。
「愛子さまは日赤で、災害について研鑽を積まれるのではないでしょうか。被災地訪問は、上皇ご夫妻から連なる、皇室の重要なご活動のひとつ。愛子さまは実務にあたる側および皇室側、どちらの視点も持つことになります。被災地訪問の際、両陛下に的確な助言を出されるような場面も出てくるかもしれません」(前出・皇室記者)
母娘の仕事熱心な“DNA”は受け継がれていく。
※女性セブン2024年2月15日号