「たしかに内閣人事局の発想は古く、橋本行革時代に閣議人事検討会議ができてからのものです。当時は局長クラス以上と大使などが人事の対象でした。が、局長だけだと局長になる人を(内閣が)見ていないことになる。それで内閣人事局では範囲をもう少し広げようと、部長級以上を一元管理の対象にしたのです。
以前の計画にプラスアルファされ、広く人事の一元化を図る目的から計画された。内閣人事局は総務省の中にあった人事行政部門の人事局と組織管理部門の行政管理局を内閣官房に移管し、私は総務省当時の人事局にいたので、その頃からの流れがよくわかります」
橋本行革の中で、官邸主導の官僚人事の枠組みをつくっていったという。まだ内閣人事局という名称こそなかったが、実際、1997年12月3日に発表された橋本政権当時の行政改革会議最終報告にも、計画が書かれている。
〈1.内閣官房は、内閣総理大臣により直接選ばれた(政治的任用)スタッフによって基本的に運営されるべきものである。その際、行政の内外から優れた人材を登用し、処遇するための人事ルールを確立するとともに、各省庁からの派遣・出向についても、派遣・出向元の固定化や各省の定例的人事への依存を排除する必要がある〉
人事で霞が関の官僚たちの生殺与奪を握り、思い通りに動かす。平たくいえば、いわばときの権力者にとって、内閣人事局のような官邸機能の強化は悲願なのである。
そのなかでも、とりわけ人事の一元管理に熱を入れたのが、第一次安倍政権といえる。行政改革担当大臣に就任した渡辺喜美が「内閣人事庁構想」をぶち上げ、官房長官の塩崎恭久とともに霞が関支配に血道をあげた。また福田康夫を挟んだあとの麻生太郎政権でも、行革担当大臣の甘利明が国家公務員法改正案(通称・甘利法案)を提出した。
が、それも廃案になり、内閣人事局構想は実現しなかった。コロコロと政権が移り、民主党政権時代を経て15年以上も構想は動かなかった。
そこには、やはりそれなりの問題があったというほかない。