◆スターへの転換期は貫太郎と『YOUNG MAN』
翌1974年には『傷だらけのローラ』の大ヒットで、スターの座を不動のものに。さらに同年、ドラマ『寺内貫太郎一家』(TBS系)に出演。作曲家の小林亜星(86才)演じる貫太郎の息子・周平に抜擢されると、俳優としての勘のよさも披露した。
「歌手なのに、けがもいとわない体当たり演技が話題となりました。この作品で知り合った小林さん、樹木希林さん(享年75)、浅田美代子さん(62才)は、彼の一生の友人となりました。小林さんからは1999年にアニメ『ガンダム』の主題歌のオファーをいただきました。このとき、秀樹さんは“ガンダムって面白いの?”というレベルでしたが、周囲が“絶対に断っちゃダメ”と後押しして、実現しました。その後も“おれ、ガッチャマンの曲歌うんだろ?”と勘違いしていましたが(笑い)。
樹木さんと浅田さんとは、温泉旅行に行ったことも。2人だけで秀樹さんのバリの別荘に行って遊んでいたこともあった。共演者との親交はずっと続きました」(前出・レコード会社関係者)
1979年には、周囲を説き伏せてアメリカでヒットしていた『Y.M.C.A.』をカバーし、シングル『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』として発表。すると、瞬く間に、全国にあの歌とダンスが広まった。人気番組『ザ・ベストテン』(TBS系)では9週連続1位に輝き、うち2回は9999点の満点をたたき出した。振り付けは、秀樹自身が決めたものだった。
「アメリカ・ロスに行った時、カーラジオから流れる『Y.M.C.A.』に心奪われた秀樹さんが、これを原曲に歌詞を書き換えて作ったんです。レコード会社は“外国曲は売れない”と猛反対しましたが、秀樹さんが“絶対に歌う”と押し切った。結果的に圧倒的な人気を得ました」(スポーツ紙記者)
1983年、個人事務所を設立。『ギャランドゥ』をヒットさせ、新たなステージへと歩みを進めた。
◆“気配りの人”だった秀樹 歌うときは“自分勝手”
この頃、秀樹は日本中の女性が熱狂する大スターとなっていたが、私生活では意外な素顔を見せていた。長年秀樹のマネジャーとして連れ添った片方秀幸さんはこうふりかえる。
「私は1984年にマネジャーとして入社したのですが、採用時の面接官が秀樹さんでした。スタジオ収録の合間の楽屋に呼ばれて対面した秀樹さんは、柔和な表情で“この業界ではお茶が欲しいと言われる前にお茶を出せる、そんな気配りと想像力が大事なんだ”と、業界のルールのようなことを説明してくれました。3分程度でしたが、大学を出たばかりのロン毛の若造にも丁寧な対応をしてくれたことに人のよさを感じました。翌日、事務所の方から“秀樹さんも気に入ったようなので、髪を切って明日から来て”と(笑い)」