田原と近藤が頑張っている間に、ジャニー氏は次なるスターを育成。1981年にひかる一平、1982年にシブがき隊、1983年にイーグルス、乃生佳之と続々とデビューさせていく。野村義男は同年、THE GOOD Byeのメンバーとして『日本レコード大賞』の最優秀新人賞に輝いた。
当時は、現在のようなジャニーズ事務所の男性アイドルの寡占状態は形成されていなかった。1981年には、『金八先生』の第2シリーズで生徒の松浦悟役で人気を得た沖田浩之(スターダストプロモーション)、『ミスターCBSソニーオーディション’81』のグランプリを獲得した竹本孝之(サンミュージック)、『ただいま放課後』第3シリーズでメインの生徒役を務めた堤大二郎(山の手エージェンシー)などの強力なライバルが出現した。しかし、そうした新鋭たちの中で『ザ・ベストテン』にランクインしたのは沖田だけ(1981年に6回)。田原と近藤はライバルたちを退けていった。
『ザ・ベストテン』におけるジャニーズ事務所の占有率の推移を見てみると、どのように芸能界を席巻していったかがよくわかる。
1978、79年の0%から田原と近藤のデビューで1980年に5.3%(小数点以下第2位を四捨五入。以下同)と上昇。1981年は18.2%、1982年にはシブがき隊のデビューもあり、22.1%と全体の4.5分の1を占めるまでに成長した。シブがき隊が『NAI・NAI 16』で初登場した5月20日以降の33週中20週で、ジャニーズ勢が3曲もランクインした。
1984年はチェッカーズや吉川晃司の台頭で、占有率13.7%まで減少。1986年になると、ランクイン数が田原9回、近藤8回、シブがき隊5回と人気に陰りが見え始める。前年12月デビューの少年隊が22回とカバーしたものの、占有率は8.6%まで落ち込んだ。しかし、1987年は光GENJIがデビューし、14回ランクイン。少年隊の30回、近藤の18回などを合わせ、14.0 %に回復。そして、1988年は光GENJIが52週で45回、少年隊が26回、田原俊彦が『抱きしめてTONIGHT』で華麗な復活を遂げて24回を記録。この年デビューした男闘呼組の10回などを含め、ジャニーズ勢は22.5%(※ジャニーズ事務所と他事務所の融合グループであるCHA-CHAを含めると23.3%)と過去最多の占有率を誇った。