「当時は主演を張るヒーローやヒロインから大部屋俳優まで撮影所が丸抱えし、同じような役回りを繰り返し演じさせるシステムでした。だから主役と脇役の棲み分けははっきりしていたし、作品が変わっても、脇役がヒーローになることは決してなかった」
脇役は主役の演技を盛り上げることに命を懸け、主役もそれを理解していたから、プライベートでも大部屋俳優を大事にした。
「中村錦之助さんは、毎晩スタッフや脇役たちを自宅に呼んで、食事や酒をふるまい、翌朝、自宅から撮影所へ送り出していたという逸話が残っています」(樋口氏)
だからこそ、脇役が主役よりも目立ってしまうことは御法度だった。福本が現場を振り返る。
「忍者軍団の手下役で、山の上からキャメラに向かって一目散に走るシーンがあったんです。黒装束に身を包んで、ピョンピョン跳ねながら真っ先にキャメラの前にたどり着くと監督の怒鳴り声。『ドアホ! 手下のお前がいちばん最初に駆けてきてどないするんや! 主役が先に来ないと画にならんやろ』と…(苦笑)」
◆脇役には自分を投影できる
一度脇役として役者デビューすれば、死ぬまでスポットライトはおろかカメラに写ったかどうかすらわからない脇役のまま。そんな彼らに光が当たり始めたきっかけは、皮肉にも映画業界の衰退だったと樋口氏が言う。
「1970年代に入り、日本映画に陰りが出ると、これまでの絵に描いたようなヒーローじゃダメだ、もっと人間味があって観客が自分を投影できる存在でなければ、という風潮が生まれました」
そこで制作陣が目を向けたのが、癖のある脇役だった。
「1つの成功例が1973年に公開された『仁義なき戦い』。それまで脇役専門だった金子信雄を筆頭に従来の脇役たちをメインキャストに置いたところ、リアルで人間臭い演技が大評判になりました」(樋口氏)
背景には、高度経済成長期の衰退がある。前途洋々で、未来に希望が持てた1960年代が終わり、1970年代に入ると経済が停滞し始める。公害や政治汚職の問題も次々に噴出した。
「『健さん、悪い奴ぶった斬ってくれ』という単純な勧善懲悪から、バイタリティーをもって生き抜く悪い奴、癖のある奴に自分を重ねて笑うように、見る側の感性に変化が生じたのです」(樋口氏)
脇役専門で活動してきた役者たちに主役への扉が開かれるにつれ、脇役そのものにも次第にスポットライトが当たるようになる。