◆戦場のマスコット
鯨部隊には、「豹をも飼いならす勇猛部隊」という異名があった。湖北省陽新県に駐屯していた第二大隊第八中隊に対して、地元の中国人が「豹が出没して人や家畜を襲うから退治してほしい」と陳情した。頼まれれば断れないのが土佐人だ。
第三小隊長の成岡正久曹長が「俺に任せちょけ」と、三人の部下を連れて山に行き、命がけの豹退治をした際に、生き残った猫のように小さな豹を連れ帰った。
「ハチ」と名付けられた豹はどんどん大きくなり、兵たちになついてマスコットとなった。過酷な戦場で、人なつっこいハチは兵たちの癒しとなり、放し飼いのまま成長していく。育ての親である橋田寛一・一等兵に尾いて、町までとことこと一緒にやってくる“猛獣”に中国人は仰天する。
「豹をも飼いならす部隊」という異名は、鯨部隊の強さと優しさを両方表わすものとなった。
しかし、ハチがやってきてから1年3か月後、大作戦が下令され、部隊は大移動を余儀なくされる。ハチの引き取り手を必死で探す成岡さんらの執念は、ついにはるか彼方、東京の上野動物園を揺り動かした。ハチは、中支からはるばる上野動物園に送られるのである。
兵たちとハチとの別れの空間は、涙と『南国節』で満たされた。激戦に身を投じる兵たちは、
「ハチよ。俺たちの代わりに内地の土を踏んでくれ。おまんのことは、天国から俺たちがずっと見守っちゅうきねえ」
生きて内地の土を踏むことなど考えられなくなっていた兵たちは、そう言って『南国節』を歌って、ハチを送り出したのである。
中支の戦場からはるばる三週間の長旅を経て上野動物園にやってきたハチは、たちまち子供たちの人気者となる。ハチは、生まれてすぐに成岡さんや橋田さんら、鯨部隊の兵たちの愛情を一身に受けて育っている。そのために、自分を豹だと思ったことがない。それは、誰が檻に近づいてきても、優しい目をして近づいてきてくれる“不思議な猛獣”だったのである。
だが、戦争の悲劇は、そんな心優しいハチの命を奪ってしまう。空襲が近づき、食料も乏しくなった昭和18年8月、ハチは「もしも」に備えて危険を除去するという方針によって、無情にも、ほかの猛獣26頭と共に毒殺されてしまうのである。
戦後、かろうじて命を永らえて復員してきた鯨部隊の兵たちはハチの死を知って茫然とする。特に、成岡さんの衝撃は大きかった。成岡さんはハチの剥製を「どうしても引き取りたい」と上野動物園と粘り強く交渉し、ついに入手する。成岡さんは、自宅の床の間にハチの剥製を置き、寝起きを共にして、ハチの魂を鎮め続けたのである。ハチの剥製は、現在も高知市桟橋通にある高知市子ども科学図書館に展示されている。戦争の悲劇と人々の優しさを同時に表わすこのハチの物語を、ペギー葉山さんは重視していた。
「ハチはきっと兵隊たちと一緒に『南国節』を歌っていたのよね」
ペギーさんはインタビューの中で、私にそう問うてきた。私は、「その通りです」と言わせていただいた。哀しさの中でも、人間の情の深さを伝えるエピソードをペギーさんはずっと心に留めていたのである。