9月にようやく、“夏休み”を取得し、静養されるという(4月、東京・渋谷区。時事通信フォト)
雅子さまに「スキーはやるの?」
今回、進次郎氏が出馬を決断するに至るまでには、純一郎氏の了解が不可欠だったとみられている。
「純一郎氏は『(進次郎は)50才になるまでは総裁選に出馬すべきではない』という意思を長年語ってきましたが、態度を軟化させたそうです。
今回の総裁選を機に、ラジオ番組で水を向けられた進次郎氏は『私はいま43才ですけど、仕事上のさまざまな判断、決断をいちいち親父にあおぎますか』と否定していましたが、彼にとって純一郎氏は父親である以上に、政治家のいろはを学んだ師でもある。2人の関係は極めて良好なので、純一郎氏の意に反するような決断はできないでしょう」(政治ジャーナリスト)
進次郎氏が20才だった2001年、純一郎氏が首相に就任。進次郎氏は世襲を前提に、2007年から純一郎氏の私設秘書を務めた。
「2008年、純一郎氏は政界引退を表明するとともに、進次郎氏を後継候補に指名。進次郎氏は地盤を継ぎ、世襲批判にも臆さず、2009年に初当選を果たしました。『脱原発』がいい例ですが、純一郎氏の発言や主張は、引退後もしばしば注目を集めてきた。進次郎氏は政治活動のなかで、常に純一郎氏の存在を意識してきたでしょう」(前出・政治ジャーナリスト)
「郵政民営化」をはじめさまざまな改革が行われた5年に及ぶ小泉政権のなかで、懸案が残されたままとなったのが、前述の安定的な皇位継承に関する問題だ。
純一郎氏が皇室制度改革に着手したのは、2004年末のことだった。当時、皇室は男性皇族がおよそ40年誕生しない状況にあり、お世継ぎ問題に直面していた。純一郎氏は、2004年12月に皇室典範に関する有識者会議を設置。2005年11月には最終報告書が取りまとめられた。
「最終報告書のなかでは、女性天皇、およびその子となる女系天皇を認めること、また、皇位継承順位については男女を区別せずに直系の第1子を優先させることが盛り込まれました。つまり、国会で法案が成立すれば、皇室典範が変更され、『愛子天皇』が将来的に実現する運びだったのです。当時も反対意見はありましたが、純一郎氏は粛々と議論を進め、皇室制度改革を果たそうとしていました」(前出・宮内庁関係者)
有識者会議の設置から最終報告書の取りまとめまで約1年というスムーズな進行の背景には、純一郎氏と、当時、皇太子ご一家だった天皇ご一家、とりわけ雅子さまとの奇縁ともいえるつながりがあったとされる。
純一郎氏は1972年に初当選するまで福田赳夫氏の秘書官を務めていた。1976年、その福田氏の内閣で首相秘書官に就任し、日中平和友好条約の作成に参加したのが雅子さまの父・小和田恆さんである。2人は、当時から親しくコミュニケーションが取れる間柄にあったとされる。
「純一郎氏と恆さんの仲は長く、1993年に雅子さまが皇室に入られるずいぶん前からの関係で、数十年来の友人と聞いています。小泉家と小和田家の行きつけのスキー場が同じだったのは有名な話で、旅行の日程が重なった際、スキー場のロッカーで、純一郎氏が雅子さまに“スキーはやるの?”と声をかけたこともあるそうです。もちろん、在任期間中も、純一郎氏は恆さんとたびたび面会していました」(前出・政治ジャーナリスト)