「かつてのプロ野球界には、伝説を持つスカウトがたくさんいました」と井元はいう。阪神、東京オリオンズのスカウトを歴任した“マムシの一三”こと青木一三や“スカウトの神様”と呼ばれた広島の木庭教、そして中日の柴田崎雄──。
「そうしたスカウトたちが、自由競争で選手を獲得していたのが1965年以前。しかし、いろいろと暗躍する人も多かった。あるひとりの選手の獲得に熱心な球団の横から、別の球団が『うちはこれだけ(契約金を)出すよ』と獲る気もないのに大きな金額を提示する。すると先に声をかけていた球団は条件を釣り上げますよね。そうした嫌がらせが横行し、契約金が高騰していた」
井元がスポニチに入社した1964年、東京オリオンズに上尾高校の山崎裕之の入団が決まった。契約金は史上最高額となる5000万円。そうした高騰を防ぐため、翌年からドラフト会議が実施された。
「初めてのことで、リストに挙げていた選手を他に獲られたりしたらもうてんやわんや。『休憩をくれ』と言い出す球団まであった」
その日、大洋に1位指名されたのが、岡正光(保原高)という左腕。しかし入団後、ヒジの故障が発覚する。井元は翌1966年に大洋の担当記者としてキャンプを取材。この新人投手がブルペンで投げた瞬間、「あちゃー」と落胆する大洋首脳陣の声が聞こえたという。
◆桑田・清原「二本釣り」計画
1968年には法政大の田淵幸一が阪神に、同じく山本浩二が広島に、明治大の星野仙一が中日に指名された。大豊作のドラフトであった。井元は翌1969年にはPLに戻り、教え子をプロに送り出すスカウトという立場でドラフトとかかわってゆく。
ドラフトにまつわる二大事件といえば、巨人が制度の盲点を突き、1978年のドラフト前日に江川卓と電撃契約をかわした「空白の一日」事件。そして、井元がPLに導いた清原、桑田の命運が、真っ二つに分かれた1985年のKKドラフトであろう。井元の負った傷も深い。