この延長線上に、冒頭の島会長の発言があり、打ち切りが囁かれたのだ。平成元年、“昭和を振り返る”という名目もあり、紅白は開始時間を従来の21時から19時15分に改め、初の2部制を敷いた。しかし、視聴率47.0%(2部。以下同)と初めて50%を割ってしまう。島会長は〈公共放送にふさわしい大みそかの番組を職員とともに開発していきたい〉(朝日新聞夕刊・平成2年1月8日付)と紅白に代わる題材を模索した。
結局、めぼしい代案がなかったため、平成2年も紅白は2部制のまま存続。島会長は現場にこんな要求をしていたという。
〈紅白のネーミング、大枠は残すにしてもマンネリ化は困る。歌を取り巻く現在の環境も変わっている。新しい時代を反映したものをどこまで出せるか?〉(日刊スポーツ・平成2年10月13日付)
同年、東西統一を果たしたドイツ・ベルリンからの中継で出演した初出場の長渕剛が予定の10分を大きく上回る17分30秒も歌って物議を醸す。23年ぶりに出場した植木等の『スーダラ伝説』も視聴者を呼び込み、51.5%と回復。それでも、島会長は〈外国からの中継を取り入れたりニューメディア時代じゃなきゃできない内容だったが、基本的には変わってないな〉(日刊スポーツ・平成3年1月10日付)と手厳しかった。
だが、平成3年7月に島会長が辞任したことに伴い、流れが変わる。代わって会長の座についた川口幹夫氏は、就任会見で紅白の継続について聞かれると、〈島前会長は「やめる」とかなり強く言っておられたようだが(笑い)、私もやめてもいいと思っている。時代が変われば番組が変わるのは当然。50%の視聴率を取っているし、新しい紅白の誕生を現場に求めています〉(日刊スポーツ・平成3年8月1日付)と存続とも打ち切りとも取れるコメントをしていた。
その後のインタビューで紅白について問われると、こう発言した。
〈判断は現場にまかせます。僕らが作っていたころは、会長からは何も言われなかった。現場のやる気を生かすのが、一番いいんです〉(朝日新聞夕刊・平成3年8月23日付)
平成3年も、視聴率51.5%と前年と同じ数字を記録。紅白打ち切り説は消えていった。